(旧下関市)

(17年)

観音岬古墳
 下関市安岡本町3丁目、岬に立地した前方後円墳です。北バイパ
 スから岬の上に乗っかったような古墳が遠望できるので行ってみ
 ました。以前は説明板が立っていたがそれがなくなっているが他
 は変わりなし、全体が雑木に覆われていて中に入っていく道もあ
 りません。それでも強行突入、前方部が壊失していますが南西側
 に出っ張りがあり多少は残っているようです。後円部は上部は広
 く平坦になっていて前期古墳を思わせます。上には墓石が1個あ
 るのみ(明治か江戸後期か)。入り口辺りに駐車スペースあり。

みやばし古墳群
 下関市延行、延行送信所南方150m、丘陵最高所辺りの平坦面
 に分布する古墳群です。前回訪問した時は墳丘だけだったのでア
 ップはパスしたので再訪してみました。記憶の中では開放的な墓
 地の中に土饅頭のような墳丘があるイメージがあったのですが行
 ってみるとまるで違っていました。頭の中で他の古墳と混乱して
 いたかも(実際経験あり)、とは言え違いすぎたな、四半世紀く
 らい経っているからいたしかたないか。送信所東側の住宅脇を通
 って林の中に入ると墓地があります。その手前に背の高い墳丘が
 あってこれが一番良好(後で古墳群に属さない岡古墳と判明)、
 墓地の手前にも1基、更に墓地を通り過ぎて竹林の中に5基確認
 できました、どれも低い墳丘です。幾つかの古墳で頂部が盗掘さ
 れていますが石材は全く見られず木棺直葬かもしれません。前回
 は6基、今回は7基確認したからほぼこれくらいの規模かな。送
 信所脇に駐車スペースあり。

岡古墳
 みやばし古墳群の手前にある古墳です。てっきり古墳群に属して
 いると思っていましたが岡古墳という別の名前が付いていました。
 そういう目で見るとみやばし古墳群の墳丘と比べると随分背が高
 いです。高さから後期古墳かと思われますが周囲が多少削られて
 いるのにもかかわらず石材は全く見られません。墳丘には太い竹
 が密生しています、裸の状態だったらまだ見応えがあったんです
 けどね。

丸子山古墳
 下関市延行、丘陵から派生した小さな半独立丘陵上にある古墳で
 す。遺跡自体は以前から知られていましたが1986年住宅開発
 に伴う事前調査で石室が見つかり見つかり新たに丸子山古墳と命
 名されました。17年本格的な発掘で石室全貌が判明、上部を失
 っていますが玄室や羨道下部が良好に残っていました。丘陵頂部
 よりやや西に下った斜面に構築、南側に平野が広がっているのに
 何故か北西に開口、全長4.2m、玄室長2.4、幅1.25−
 1.54m、両袖式ですが左袖はあまり明確ではない。床面には
 角礫が敷かれ一部羨道にまでおよび仕切り石で区切られている。
 奥壁沿いには平石が敷かれ明らかに違った区画、この片隅から臼
 玉が出土しています。石室前面だけに列石がある。市内では良好
 に残る石室だけど残念ながら発掘後消滅するようです。
 (追記)17年12月現在、丘陵ごとすっかり削平されていまし
 た。移築もないようです。

(14年)

迫山石棺(安岡八幡宮石棺)
 下関市安岡、別の目的で神社に行ったら境内に”神功皇后ゆかり
 の武将の石棺”なんて説明板(石柱)があった。神功皇后はとも
 かく石棺に惹かれて慌ててゴー、どうやら箱式石棺のようで現在
 は御霊屋のように祀られているようです。神社が低い丘陵上にあ
 ってその頂部が一見円墳風、その裾辺りにあります。蓋石3枚と
 身の一部が見えているが内部は埋没、3世紀のものだそうです
 (出土品からより神功皇后関連ということで3世紀としたのかな
 )。ひょっとして頂部にも別の主体部があるかもしれない、と勝
 手想像。実は説明板を見る前にこの脇を通っていたのですが円墳
 そっくりの地形だなと思ったけどここに古墳があるはずないなと
 通り過ぎ箱式石棺も気が付かなかったよ。現地標柱は安岡八幡宮
 石棺となっていますが県遺跡地図では迫山石棺となっています。
 神社駐車場あり。

(09年)

観音堂古墳
 下関市有富、道路建設に伴い09年発掘現地説明会が行われまし
 た。南向きの緩斜面に構築された墳丘は既に流失し石室も基部し
 か残っていませんでしたが既に中世の頃天井部が崩落していたた
 め却って盗掘の被害を免れ鉄剣や勾玉などの遺物が元位置のまま
 豊富に出土しました。石室は移築保存が決定していますがまだ保
 存場所は決まっていないようです。
 ここは地元なのに全く知らず oobuta さんに教えて貰って一緒に
 行って来ました。当日NHKのカメラが取材に来ていたので夕方
 のニュースを見ていたら二人ともしっかり写っていました。もっ
 ともほんの1,2秒でその気になってみないと分からなかったで
 すが。
(追記)
 開通した道路脇に石室が移築保存されました(元の位置よりやや
 南側)。でも道路面より下側になるので車で走りながらでは存在
 が分かりません。移築は元の場所からなるべく近い所が原則なん
 でしょうがこんな場所では見学者も殆どいないのでは。西側に考
 古博物館や綾羅木郷遺跡公園があるからそこに移築した方が余程
 活用できるかなと思いますけどね。

(07年)

仁馬山古墳
 06年発掘しているとの情報に接し飛んで見に行ったら杉がすっ
 かり伐採され裸の状態になっていました。以前は鬱蒼とした杉林
 に覆われ墳丘の写真は殆ど撮れなかったもんな。墳丘の状態は極
 上と言ってもよく崩れたり削られたりしている箇所は全くといっ
 ていいほどありません。後円部の三段築成の様子や前方部の低平
 な状態もよく分かります。残念ながら後円部頂は盗掘で少し凹ん
 でいました(07年の発掘で粘土槨検出)。出土遺物は殆どなく
 埴輪も少数しか立っていなかったようです。仙台市の遠見塚古墳
 が遺物が少なく貧乏古墳と呼ばれたりしましたがこれもそうだっ
 たのかな。国史跡。
 南側にあった南墳はレーダー探査で主体部が確認されていますが
 北側にあった北墳は古墳では無いことが判明しました。
 将来は古墳公園として整備するそうですが財政難の折りいつにな
 る事やら。墳丘の状態が非常によいですからあまり手を加えて欲
 しくないものです(その方がお金もかからないしね)。

植松古墳
 仁馬山古墳すぐ北側にある方墳です。こちらも同時に発掘、墳丘
 を十字に切るようにトレンチが入りましたが主体部未検出、周溝
 も外装施設も確認できず古墳であることが怪しくなってきました。

上ヶ原古墳
 植松古墳すぐ西側にある方墳です。以前見に来たときはこれが古
 墳かいなと半信半疑だったけど間違いなかったようでホッ。既に
 発掘で主体部は箱式石棺と確認されているので今回は墳丘範囲の
 確認と周囲に幾つかのトレンチを入れ有蓋土壙墓3基と竪穴石室
 1基が確認されました。1号有蓋土壙墓を除けばみな上ヶ原古墳
 に接するようにありますが上ヶ原古墳の方が後から構築されたこ
 とが確認されました。なんでこんな窮屈な場所に構築したんだろ
 う。竪穴石室は盗掘されていましたが有蓋土壙墓の方は未盗掘、
 しかし副葬品は1号で土器が1点出てきただけでここでも貧乏ぶ
 りが偲ばれます。こちらは史跡範囲外だけど多分史跡指定される
 んじゃなかろうか。

王喜傍示古墳広場
 下関市松屋東町1、元の尾根からやや西側国道2号バイパス脇に
 古墳公園として石室3基が移築されて公園として公開されました。
 駐車場有り。仮ナンバーが付いていた仮3,4,5号はそれぞれ
 5,4,3号となっています。石室はほぼ元の状態のまま位置関
 係も保ったまま復元されていますが南北に並んでいたのが東西に
 なったのは土地の関係状致し方ないですね。入り口に周辺部の航
 空写真があり付近の古墳が幾つか載っていますが傍示1,2号は
 未記載、王喜寺山古墳は石室墳ですが既に消滅しています。消滅
 は消滅とはっきり書いて貰いたいものだ。

中村古墳
 信号停止で止まった脇に近隣の史跡を紹介した案内板があった。
 普通はこういうのは見ないと言うか気にもしないのだがなぜかこ
 の時は予感があったのかちらっと見てみると古墳の名前があった。
 さすがに簡単な絵図だしどんな古墳なのかどんな状況なのか全く
 分からないので後日バイクで探索、地名だけを頼りに探してみた
 がやはり分からないので地元の方に訪ねて場所が分かりました。
 個人の敷地内にあって思いがけず石室、しかも多分市内でも最大
 級の石室じゃないか。残念なことに墳丘はすっかり流失し玄室が
 露出、石材が放り込まれて内部も撮影できない状態でしたがまだ
 まだ石室が残っているんだと驚いた次第でした。

(04年)

有富古墳
 再捜索。でもやはり前回見つけた小古墳を見つけただけ。再度捜
 索、今回は範囲を広げてトンネル付近を捜索。東側の寺で住職さ
 んが知っていて教えてくれました。もっと西側のパチンコ店の裏
 側、何のことはない以前も来ていたけど気づかなかった。しかも
 竹林の中に説明板が見えているではないか、他のことに気を取ら
 れて気づかなかったらしい。それはともかく墳丘脇に説明板も立
 っていました。それによるとやはり古墳群らしい。現在2基しか
 残っていないと書かれているが東側少し離れた場所に3,4基あ
 ったけどな。墳丘は良好、背後の斜面をカットした跡も明瞭に残
 っていました。南側に石室が開口、羨道はかなり埋まっていてか
 ろうじて中が覗ける程度にあいている。何とか入れるかなと思っ
 て下半身を入れてみたけど出るのが困難そうなので断念。仕方が
 ないのでカメラを突っ込んで撮影、巨石を使った奥壁がしっかり
 写っていました。こういうときデジカメはすぐ確認できるから便
 利ですね。市史跡。

幡生宮山古墳
 石室入り口の柵は立てかけているだけの状態なので中を覗かせて
 貰いました。墳丘からは想像できない背の高いドーム状の玄室だ
 ったのでちょっとビックリ。

傍示古墳群
 国道2号を通っていたら下関と山陽町との境界をなす尾根の上で
 林が取り払われ地山が見えていて明らかに発掘が行われている様
 子が見えました。ここは以前に一度探しに来たけど尾根にあがる
 道が見つからなくて断念した場所で古墳の発掘だとワクワクして
 行ってみました。予想通り古墳の発掘中(下から見て古墳と思っ
 たのはただの残土だったけど(笑))、しかも石室が3基(墳丘
 は4基)もあるじゃないですか。でも資料によればここには2基
 しかないはずと思って聞いてみたら従来から知られている傍示古
 墳群はもう少し北側の丘陵斜面にありこちらはどうやら新発見の
 ようです(仮1−4号と名付けられている)。現説は既に終わっ
 ていましたが資料は貰えたし作業の合間に自由に写真を撮れたし
 私にとってはこちらの方が好都合でした。仮1、2号は墳丘が殆
 どくっついていて一見1墳2石室のよう、どちらも殆ど天井石を
 壊失していますが割と大型の石を使った両袖式の石室です。床面
 には敷石がしかれ1号の方には棺台もあります。西側の仮3号は
 やや小型ながらこちらも両袖式、細長い羨道も割と残っています
 。東側の仮4号は崖になっていて墳丘の一部と周溝が残るのみ。
 残念なことにバイパスルートになっていて発掘後は消滅のようで
 す。せめて石室だけでも移築保存してもらいたいのだが。
 作業員の方に教えてもらって本来の傍示古墳群も見学。林の中に
 入っていくと天井石が露出した1号墳が見えてきます。羨道はか
 なり埋まっていますが匍匐後進(←分かる人は分かるだろう)、
 玄室は背の高いドーム型ですが天井石が落ちかかって途中で引っ
 かかっている。天井石が落ちているのは何度も見たことはあるが
 こんな状況は初めて、かなり怖かった(後日また入ったけど)。
 ので写真を撮って早々に退散しました。2号墳はこのすぐ上にあ
 ります。こちらは羨道の天井石が無くなっている程度で墳丘石室
 とも良好、響灘沿岸でよく見かける複室構造ドーム型の玄室です。
 今回は発掘中でライトはいらないだろうと思って持ってこなかっ
 たのでカメラのストロボの明かりで石組みの様子を見る始末でし
 た(なので後日また訪問)。

(02年)

工領古墳
 国道2号脇に墳丘があるがちょうどバイパスとの分かれ目で気づ
 きにくいかも。実際今まで何度も通っていたが全く気づかなかっ
 た。北から見ると丸い墳丘が残っているが南側の石室開口部は大
 きく削られ羨道は殆ど壊失している。柵があって玄室には入れな
 いが奥壁に巨石を据えている。。資料では切石積みの玄室と書か
 れているがどう見ても普通の割石積み石室のようだ。すぐ西側に
 2号墳があると言うことだが民家の中で確認できなかった。多分
 史跡。

(93年)

若宮1号墳
 博物館西側の小高い台地上に造られた全長40mの前方後円墳で
 墳丘が復元されています。主体部は元の地面近くに構築された組
 合式箱式石棺でこの種の石棺には珍しく追葬が行われ墓道の痕跡
 も確認されています。残念ながら石棺は見ることは出来ません,
 博物館にでも復元してくれたら良かったのに。周囲に箱式石棺を
 主体とした小型の円墳が5基有り古墳群を形成しています。なお
 後円部北側にある方形墳は一辺10m程の弥生墳丘墓で墳頂に箱
 式石棺が5基所狭しと並んでいる様子が復元されています。1号
 墳の築造の際南側が大きく削られていますが1号墳の位置を少し
 南にずらせば削らなくてもすんだのに。国史跡。

岩谷古墳
 火の山西側の椋野町にあった径14mの円墳ですがインターチェ
 ンジの建設に伴い石室を市立図書館に移築,更に考古博物館の完
 成で建物脇に移築,墳丘も復元されようやく安住の地を得て静か
 な眠りについています。発掘に際して墳丘構造が詳しく調査され
 石室を構築しながら土を盛り上げてゆき石室墳丘が完成すると須
 恵器の大瓶を埋めて祭司を行い更に土を盛り上げて最終的に墳丘
 を完成させています。石室は玄室・前室からなる複室構造,玄門
 に袖石・まぐさ石を使った両袖式,奥壁が大きな一枚石の他は中
 型の割石を使い持ち送りの強い玄室です。入室可。

上の山古墳
 考古博物館から道標に従って行くと(道が狭いしあちこちで分岐
 しているので歩くか自転車が最適)川北神社にあった推定全長1
 08mと市内最大の前方後円墳でしたが神社造営で完全消滅,跡
 形も無し。

みやばし古墳群
 更に東に行くと海上保安庁送信塔の南側墓地周辺にある古墳群で
 す。小型の円墳が7基確認できました。内部主体は不明。更に東
 側仁馬山古墳との間にも2基有り。

仁馬山古墳
 更に東に行くと朽ちかけた標柱がありそこから林の中に入ってい
 くとすぐに墳丘が見えてきます。全長74mの前方後円墳で保存
 状況は良好,後円部に比して前方部は細く低平,後円部の上に送
 電線が通っていてこちらは裸,前方部は杉林になっています。す
 ぐ側に陪墳2基。国史跡。

植松古墳
 仁馬山すぐ東側四ツ辻脇の民家北側にある古墳で,県内でも珍し
 い一辺十数mの方墳,詳細は全く不明。このすぐ西側畑の中にや
 はり方墳の上ヶ原古墳がありますがこちらはかなり低平な墳丘の
 ようです。更に北側竹藪の中に小さな古墳がありこれが下有富古
 墳のようです。石室石材らしき石が見えています。

秋根古墳
 史跡の道の最終地点,新下関駅西側秋根記念公園の一角神社の背
 後にある径10〜15mの円墳です。周辺がすっかり住宅地にな
 っている中で保存されたのもやはり神社の威光でしょうか。墳丘
 は社殿で半分近く削平されていますが西向きに石室が前方部が削
 平され開口,両袖式前室玄室の複室構造持ち送りの強い玄室で奥
 壁は切石に近い石が使われています。入り口に柵があって中には
 入れませんが削平された崖面に玄室上部が開口していてそこから
 中を覗くことが出来ます。5年前に行った時中にあった布団がま
 だあるぞ、少しは掃除をしてくれー。市史跡。
 すぐ側に下部のみ残存する2号墳の石室が移築復元されています。
 こちらも両袖式で1号より規模は小さいですが使われている石材
 は大きいようです。
 (追記)
 石室内部が清掃されたらしく中にあった布団がなくなっていまし
 た。石室上部にあった隙間も塞がれて中が覗けなくなっていた。

有富古墳
 植松古墳北東丘陵南側の山麓にある横穴式石室を主体とする円墳
 なんですが小型の円墳が幾つかありましたが肝心のは見つからず。
 市の史跡で博物館の資料に説明板の立っている写真があったので
 すぐ見つかると思ったんですが。

観音岬古墳
 安岡の西側,海に突き出た村崎ノ鼻の南端に位置する前方後円墳
 ですが径27mの後円部のみ残っています。

幡生宮山古墳
 幡生町の小丘陵上にある全長32mの前方後円墳で神社社殿裏の
 林の中にかわいらしい姿をよこたえています。後円部に横穴石室
 が開口石室長3.5mですが入り口に柵があり中は真っ暗,適当
 に写した写真を見ると下部にやや大きな割石を使った石室のよう
 だ,内部に石像あり。市史跡。

杉田の線刻石
 彦島字杉田の丘の上に線刻を施した1個の割石があります。現地
 では杉田古墳として案内板がありますが石室の側壁に彫られた物
 と見る説と古墳が破壊された後彫られたと見る説があるそうです。
 この場所は私の生まれた家から100mも離れていない場所でこ
 の辺りでもよく遊んでいるんですがこんな石があったかいな,全
 然気づかなかったぞ。
(旧菊川町)

(10年)

大日寺古墳
 下関市菊川町坂ノ上、道の駅「きくがわ」北側にある坂の上公民
 館側にあります。割と墳丘が残っていますが南側に御堂が建てら
 れていて大分削られているようだ。御堂背後に箱式石棺が露出、
 板石を使っていますが御堂で半分くらい失われているかもしれな
 い。駐車スペースあり。
 ここは植松古墳群を訪問した際探したのですが寺と名前が付いて
 いるので近くの寺を探しても分からなかった。こちらに引っ越し
 てきてから近くの道路をしばしば通っている内に遠くから眺めた
 御堂が「山口県の古墳」に載っていた写真と同じなのに気づいて
 やっとわかった。

(02年)

植松古墳群
 盆地の中の平野部にある7基からなる古墳群だが4−7号が農地
 整備で発掘後消滅した。元々田圃の中に石室の一部しか残ってな
 かったらしいが金環馬具など豊富な遺物が出土した。2,3号は
 発掘せず墳丘を復元して公園となっている。5号の石室もここに
 移築された。1号墳が公園の東側に現状のまま残っている。羨道
 は殆ど壊失しているが玄室は完存、奥壁に鏡石を据えたドーム状
 の玄室です。ただ内部は粗大ゴミが散乱、片づけながら写真を撮
 ったので写ってはいませんが。
 (追記)現在1号は閉鎖され入れません。
(旧豊浦町)

(17年)

大門古墳
 下関市豊浦町大字黒井、山地から長く伸びた舌状丘陵先端辺に構
 築された前方後円墳です。ここも四半世紀ぶりの訪問、場所は分
 かっているけどどうやって丘の上に上がったがすっかり忘れてい
 るので衛星写真で見てみたら北側からの方が接近しやすそうだっ
 たので行ってみたら藪状態で無理、麓を廻っていたら地元の方に
 会って案内してもらえました。墳丘廻りは果樹園ですが既に所有
 者が止めていて放置状態、開口部前の説明板も倒れています。そ
 の割には見学しやすく小さいながらも背の高い墳丘が残っていま
 す。羨道は土管状態だけど余程羨道の状態が悪かったんでしょう
 か、こんな例は他に見たことがないですね。羨道はガッカリ感が
 強いですが玄室は完存、これは見学の価値あり。背が高く天井が
 狭いドーム状、ただ天井は円形でなく長方形です。南西側から入
 っていく道があります、墳丘の上に桜があるのでそれが目印、高
 い木なので冬でも目印になります。市史跡。
 地元の方に聞いた話によると所有者の方が入院され果樹園はされ
 ていないそうです。この日はまだそれ程ではなかったですが今後
 は荒れ果てることが予想されます。

中畔古墳群
 下関市豊浦町大字川棚、川棚小学校側の川棚神社背後の丘にある
 古墳ですが情報は全くなし、神社なら目印になりやすいだろうと
 思って行ってみました。本殿脇を通って林の中に入るとすぐ墳丘
 らしいのが目に入りました、石材は全く見られませんがこれは古
 墳で間違いないでしょう。すぐ上にも同様のがあり初めは山道を
 造成した削り残しかと思いましたが石室らしい石組みも露出して
 いる、ただ100%間違いないかと言われると自信無し。他にも
 怪しいのは幾つかありましたがハッキリしていたのはこの2基だ
 けでした。神社に駐車場有り。
 ここは県の遺跡地図では水道山遺跡となっています。近くに古墳
 がありますが下畔古墳は神社西側にある小学校の西側、後楽古墳
 は更に西側、高迫山は古墳はずっと東側で明らかに位置が違いま
 す。保育社「日本の古代遺跡(山口)」では中畔下畔古墳群とな
 っていたけどこれも2つの地名が合わさっているようにみえるの
 で一応中畔古墳群としておこう、古墳群と思っていたから複数探
 したしね。遺跡地図が必ずしも正確とは限らないから実見した方
 を大切にしよう。

(13年)

甲山古墳群(こうやま)
 山口県下関市豊浦町大字室津下、室津漁港北側に聳える甲山(と
 言っても標高100m程度ですが)に分布する県内最大の群集墳
 です。10年前は全く分からず撤退、今回は地形図をよく見て南
 側やや平坦になっている辺りを目当てに行ってみました。まずは
 一番奥にある蛭子神社その脇から上る石段があったので上ってみ
 るとお堂があるだけ、でもその手前で林の中に入ってみたら小さ
 な石室があった。玄室は完存だけど長さ2m程度、周りは石がゴ
 ロゴロしていて分かりづらいけど背後にもう1基あった程度でし
 た(仮称第一支群)。
 道路に戻って南西50m行くと又上っていく石段があったので行
 ってみたら水道タンクでした。ここでも背後の林に入ってみると
 凡そ10基程度の墳丘が密集状態、斜面をカットした跡も良好に
 残っているけど細竹が密生していて視界が悪く歩くのも困難な状
 態です。そんな中でなんとか完存玄室2基発見、1基は長さ2m
 にも満たないけどもう1基は3m弱今回見つけた中では一番大き
 かった。ただ前面が削れて崖のようになっており危険な状態です。
 他には隙間から覗ける石室が3,4基見つかった程度でした(仮
 称第二支群)。
 この西側に地形図で目を付けた平坦あるけど細竹に阻まれて接近
 できず。下から見ると雑木林で中は歩きやすそうなんだけどな。

 せっかく来たので甲山に上ってみようと西側にある登山口に行っ
 てみると甲山0号の立て札があってそこから50m程西側に崩壊
 した石室があります。簡単な説明板に”群中唯一の目にしやすい
 古墳、須恵器青磁出土”と書かれている。これがなかったら石室
 かどうか首を捻りそうな状態です。しかしこんなのがあるのなら
 この先にもあるかもと思って登っていったら150m程行った登
 山道下側斜面に良好な墳丘が見えてます。降りてみたら石室開口
 玄室は良好に残っています。周りは小灌木が茂って見通しが悪い
 ですが墳丘が密集しているのがわかる。個々もねばって探して完
 存玄室2,破壊石室2,隙間石室3,4基見つけました。特に登
 山道からすぐ下のは見学しやすい。羨道は失っていますが玄室完
 存長さ3m程、奥壁側壁とも壁面が平面に整えられています。2
 枚有る天井石は前のが随分前下がりになっている。床面には扁平
 な玉石が見られて海岸から運んだのかもしれません。もう1基は
 西端辺り、天井隙間から入れますが出るのがちと苦労します。規
 模は前のとほぼ同じだが石積みは大分異なる。側壁だけでなく奥
 壁も上部が大分持ち送りされています。もう一つの破壊石室は玄
 室最後部が残存、奥壁上部が突き出ているというか天井が一段下
 がっているというかちょっと変わった構造です。盗掘跡を見ると
 全長が6,7mはありそうでこの群の中ではかなり長そうです。
 (仮称第三支群)。
 更に登っていくと尾根筋に小さな古墳が2基並ぶが石室見あたら
 ず、もう少し上に石材が散乱した場所があったが古墳でしょうか。
 天井石のような大きな石材は見あたらず(仮称第四支群)。
 頂上すぐ側には一見大きく盗掘された墳丘のようなのがありまし
 たが盗掘というにはあまりにも穴が深すぎる。周りは墳丘残部と
 言うより土手のよう。麓に幕末の砲台跡があるのでそれに関連し
 た貯水施設でしょうか。一つでも見つかればと思って来てみまし
 たが良好石室5基をはじめ結構見つかりました。分布が全く分か
 らない状態では満足すべき成果でした。しかも入れる石室は簡単
 に入れる、入れないのは全く駄目、迷うような中途半端なのがな
 いのが助かりました。墳丘の数の割に破壊されているのが少なく
 発掘すれば良好な石室がもっとある予感がします。港に駐車場有
 り。

(02年)

青井古墳群
 玄界灘に突き出た岬上にある古墳群です。レジャーランド「マリ
 ンピア黒井」内に保存されているが既に閉鎖されているので見つ
 かるかどうか不明だったが施設の案内板があったので何とかたど
 り着くことができた。石室上部を失って露出している石室と側に
 復元された4基の古墳がある。すっかり藪に包まれていて「日本
 の古代遺跡(山口)」p179の写真とはすっかり違っています
 ね。4基のうち2基で石室が開口しているがともに柵があって中
 には入れない(片方には隙間から入ったけど ^^;)。側には古墳
 資料館という名の小さな小屋がありますがこれも朽ち果てつつあ
 る。一応町の史跡になっているようだがこの後どうなるんでしょ
 うね。
 湾を挟んだ南側、独立丘稜の甲山に約90基からなる県内最大の
 群集墳甲山古墳群があるが現地に行ってもどこにあるのかさっぱ
 り分からなかった。岩山で巨石がゴロゴロしていていかにも石室
 墳がありそうな場所だが。

心光寺古墳
 心光寺の裏山(といっても10数mの高さだが)に玄室の下部が
 残存している。玄門あたりを見ると何とか石室だと分かるが水で
 も張っていればただの池と思うかもしれない。
(93年)

大門古墳
 山陰本線黒井村駅途方1kmにある全長32mの前方後円墳です。
 西に伸びる尾根の先端に立地主軸は尾根と直交していて後円部西
 側に横穴石室が開口,土管のような物(これはどうにかならなか
 ったんですかね、羨道はどうなったんだろう)が突き出ていてこ
 こから入っていくと玄室にたどり着きます。両袖式で小型の割石
 を使った持ち送りの強い玄室で平面規模の割に背の高い石室です。
 墳丘は周辺がかなり削られていますが何とか前方後円墳と分かる
 程度,ミカン畑の中にあって近くまで行かないと存在が分かりま
 せん。町史跡。
(旧豊田町)

(16年)

上燈山古墳
 下関市豊田町手洗、江良古墳群南東200mにある古墳です。丘
 陵先端に構築されていますが丘陵が県道65号で切断され半独立
 丘稜のようになっています。丘陵西側林際に案内表示があります
 がそれだけで他にはなにもありません。林の中に入ると天井石を
 思わせる巨石がありその奥に基部だけ残った石室がありました。
 残存長1.5m程度、石組みだけ見ると横穴石室よりは箱式石棺
 を思わせますが幅が5,60cmはあったのでむしろ石槨っぽい
 けどそれにしては大きすぎるかな。古墳がある場所は丘陵南端で
 すが先端が不自然に盛り上がっていて上部はまっ平らに整形され
 ています。時代は分かりませんがかなり人間の手が入っているよ
 うです。
 ここは古いパンフを整理していて偶々手洗古墳群と言うのを知り
 ました。2005年に発掘され2基の石室を発掘、現状はどうな
 っているか分かりませんでしたが探しに行ったらこの古墳を見つ
 けました。多分手洗古墳群の1基でしょうし県の遺跡地図でもこ
 の場所が手洗古墳群になっているんだけどかなり広い範囲になっ
 ていて他を見つけるのは難しそう。遺跡地図には上燈山古墳の名
 前は載っていませんでした。それはともかく石室が見つかっただ
 けでもラッキーでした。

(08年)

江良古墳群
 現下関市豊田町江良、県道34号に案内表示があってそこから北
 へ800m程、途中のY字路も真っ直ぐ行きます(古墳群側にも
 案内表示があるけどむしろY字路の所に欲しかったな)。低い丘
 陵尾根先端に4基の石室墳が残っています。どれも長さは3m程、
 天井石を失った石室で、1,2号で僅かに墳丘の高まりが残って
 います。公園になっているようで駐車場有り。

(旧豊北町)

(10年)

和久1号
 下関市豊北町大字神田上、R191号沿い小さな湾を見下ろす小
 丘陵上から西に伸びた尾根上にある古墳です。ただ小丘陵が道の
 駅建設で殆ど削平され一見独立丘陵頂部にあるように見えていま
 す。2010年道の駅建設に伴い発掘されました。玄室長3m程
 の両袖式、砂岩と一部火成岩で構成、床面には玉砂利が敷き詰め
 られていたようです。羨道は極短く閉塞石も残っていました。天
 井石は3枚残っていましたが状態が悪く発掘の際取り外されまし
 た。盗掘を受けていましたが既にその前に入り口辺りから土砂が
 流入して一部埋没おかげで玄門辺りにあった須恵器がほぼ完形の
 まま出土しました。その他水晶製切子玉や鉄刀馬具の破片などが
 出土しています。道の駅建設後はここは展望台として利用される
 そうだけど確かに見晴らしがいい場所です。古墳をどのように復
 元するかは今のところ不明。市史跡。
 実はここは88年に訪問、偶々国道に案内表示があったので行っ
 てみたけど当時は藪の中でさっぱり分からない状態でした。再会
 する機会があるとはね。

(追記)
 2012年3月、道の駅北浦街道開設に伴い復元公開されました。
 殆ど発掘当時と変わらず天井石も元に戻さず側に並べられて展示
 されています。古墳に興味がなくてもこの場所は展望台的な役割
 で眺めが良く北方には角島や角島大橋が遠望出来ます。

三浦山1号
 大字神田、和久1号から北東、湾越しに見える岬の上にあった古
 墳群で現在1号墳の石室が生涯学習センター裏に移築、墳丘もコ
 ンクリートで1/4カットした状態で復元されています。石棺系
 竪穴式石室だそうで人間が一人入るのがやっとの大きさです。し
 かし案内板も説明板も全く無し、何のため復元しているんでしょ
 うね。センターに駐車場有り。
 近くで発掘された夕陽丘古墳の石室も保存が決まっていて石材が
 保管されていますが移築場所が決まらず塩漬け状態、この側では
 駄目なんでしょうかね、幾らでも余裕があるんだけどな。













































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